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「クビワ…」

シッショの一番恐れていたことが起きた。岸から離れた水面に浮かぶ影。それは力ないクビワの姿だった。

シッショは腰がぬけそうになるのをなんとかこらえる。歯をくいしばり,シッショは地面に槍を深々とつきたてた。袖をまくり,手首に仕込んだフックをひっかけ,湖へと走り出す。甲高い音をたてながら,フックから糸がのびてゆく。

クビワは泳ぐのが得意なはずだ。それがどうして。モンスターに襲われたのか。そんな疑問を持ったままバシャバシャと水をかきわける。湖は深い。足がつかなくなった。シッショは水が苦手だ。泳ぐのも苦手だ。自然と身体の動きは犬かきになる。だがクビワへの思いが恐怖心を凌駕した。

あと少し。そう思った瞬間,ふいにシッショの身体が異様に重くなった。まるで接着剤がまとわりつくように,手足の動きが鈍い。こんなに自分は疲れやすかったか。それでも渾身の力でクビワへとたどりつく。

「クビワっ!」運よく横向きのまま浮いていたクビワは,気を失いながらもなんとか呼吸はあるようだ。何かにこすれたのか,少し身体に赤みがさしているが怪我はなさそうだ。よかった。

だがそんな安心はすぐに消し飛んだ。わずかの間でも不安が去った自分を激しく後悔した。クビワの全身に何か粘つくものがまとわりついて離れない。いや,クビワだけじゃない。シッショにも。それは透明な水のようで水ではない。

なんだこの水は。シッショはクビワを抱きかかえたまま,周りを見回した。

水飴のようにきらきらと光を反射する湖面。だが違和感があった。これだけシッショたちが暴れたにも関わらず,波紋ひとつたたない。まるでスローモーションのように,波打つこともなく水が元に戻ってゆく。シッショは苦手なのを我慢し,顔が水につかないようにして下を見た。

湖の奥深く,丸い透明な粒がひしめいている。間もなく,自分がいる状況の恐ろしさに総毛立った。吐き気がした。全身が震え,泣き出しそうになった。誰か。

これは湖じゃない。何かが吐き出した粘液のかたまりだ。この底にある透明な粒の軍団,ナマコのような何か,正体は定かではないが,それが大勢集まり,湖を模した巨大な罠を作っていたのだ。

これだけ枯れた大地だ。水を求めて多くの生物がやってくるだろう。それを捕らえ,じわじわと時間をかけて吸収するのだろう。クビワと自分はまんまとその罠にはまってしまった。

クビワ。その胸に顔をうずめてシッショは震えた。

「ん…」

ハッとする。耳に届いた声に我を取り戻し,にじんだ視界でクビワを見る。そうだ。クビワは生きている。今クビワを助けられるのは僕だけなんだ。

クビワ。愛してるよ。

シッショは槍にひっかけたフックが外れないことを祈り,手首のスイッチを起動した。腕がミシミシ,ブチブチと音を立て,その激痛にシッショが吠えながら必死に耐える。すさまじい抵抗に,手首の機構から煙があがる。だが少しずつ,確実に二人の身体が持ち上がっていった。

ふいに,空気の抜けるような音があり,二人の身体が宙に浮いた。そのまま透明な湖面を滑ってゆく。

やがて罠を脱し,二人は荒れた大地に投げ出された。



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