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アルジが忽然と姿を消した。それを敵襲ととらえたマッパはケライに気を配りつつ,速やかに針山の麓にあるキャンプまで退却した。実際にアルジの身に何が起きたかは先の通りなのだが,この二人はそのことなど知る由もない。
安全が確かめられたケライは,針山に捜索に戻ろうとする。地面に血痕はなかった。どこかではぐれたかもしれない。ただもし,音もなく丸呑みにするような何か,雪灯籠のようなモンスターがいるとすれば,被害はさらに大きくなるだけだ。マッパはケライをキャンプから出すことはできなかった。
「落ち着け。はぐれただけかもしれん」根拠はない。「知ってます」こちらも根拠はない。
「だから早く助けに行かなくては」そういってなおも出ようとするケライの腕を引っ張る。強い力にクビワが痛がる。だがそんなことでマッパは怯んだりなどしない。腕が抜ければ挿すだけだ。「どこにいるかもわからんのに無茶だ」「山のどこかにいるはずです」「迷ってのたれ死ぬだけだ」「では命綱をつけてください」「そういう問題じゃなくてだな。クビワのような化け物じみた嗅覚や聴覚もなしに,あてもなく探したって意味がないって言ってるんだ!」「クビワさんは化け物ではありません」バカかこいつ?
「アルジとお前が入れ違いになったらどうする」「アルジさんは私を探そうとします」「そうだろうな。どちらかがここで待たない限り永久に二人は会えないことになる」「ではアルジさんがここに来たら待つように言ってください」「お前が待つんだ」「なぜですか」「アルジが戻ってくるまでに,針山の報告を書く義務がある」
その言葉にようやくケライは落ち着いた。かと思ったら,キャンプ内の荷物から紙とペンを取り出すと猛烈な勢いで書き始めた。書き終わりました。探してきます。そうするつもりなのだ。
なんでこんな変なやつらを連れてきてしまったのか。だが連れていくと言ったのは自分の責任だ。そして大事な隊員を失うことになった。いや,まだ可能性は残っているが。
マッパがケライの手元をちらっと見ると,先の樹上にいたモンスターのスケッチを描いている。そこには跳毬獣と書かれていた。アルジが毛鞠獣と名づけたものだ。ケライはあのモンスターが,イガ栗のような姿で跳ね回る様子にうつったのだろう。どちらの名前が正式なものになるかは,オヤブンの手に届いた瞬間に決まる。そして今の段階ではケライの案が採用される可能性のほうがはるかに高い。
「ケライ,書きながらでいいから聞け」「はい」「俺は何度かここに入っているから,ここの地理についてはある程度知っている」「はい」「お前がどれくらいこの山を理解しているか,アルジの捜索に立ち入るだけの知識を身につけたかどうか,それはお前の報告書を読んで決める。いいか」「…はい」
マッパはケライを単独で山にやるつもりはない。だが,ケライの観察力や洞察力がどれほどのものか把握し,十分と思えば二人で捜索に入るつもりである。
夕食の最中もケライの手は止まらなかった。その後,あまり無理するなよ,と声をかけマッパは先に寝た。
地響きのようないびきである。
たまらずケライは毛布を持ってキャンプの外に出ると,湿気にやられないよう耐水性の布を敷いて腰を下ろし,毛布にくるまってペンをはしらせた。夜とはいえ,真夜のないこの地では,何かを書くのに十分なだけの光が得られる。
しばらくしてキャンプの入口がガサッと音をたて,マッパが上半身を出した。キャンプの中にケライの姿がなく,針山に向かったのかと勘違いしたのだ。だがケライは約束は守る。毛布にくるまった小さい背中が時おり動くのを見て,マッパは安心した。
「マッパさん」ふいにケライが振り返り,呼びかけた。マッパが起きてきたのがわかったのだろう。「何だ」
「どうして里の雪は冷たくないんですか」
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