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それからボッチ,ミミ,シンキの三人は,明日,といっても日は変わってしまったが,今後の方針を伝えてもらうことにして,テントに引き返した。医務室に残ったのはショムとオヤブン,マッパ,そして好奇心が無尽蔵の体力を生み出すアルジである。オヤブンとしてはいちいち口を挟むアルジは邪魔なのだが。

里の決定を下すのはオヤブンの仕事だが,今回ばかりは厄介だ。おそらく次に大きな地震がくれば,里の施設は完全にやられるだろう。そうでなくとも二度目の地震でせっかく掃除したものが台無しになったのだ。隊員たちはかなり落ち込んでいるはずである。そうしたイライラがつのった結果,アルジとの口論につながったのかもしれないが,まあそれはそれとして,ボッチが以前提案した森への本部移転を本格的に考えなければならなかった。それはマッパの目的地に近いこともあり,良い考えだといえるだろう。

問題は湿原を襲った謎の現象である。本部を移転すれば一時的に被害を免れるかもしれないが,例の黒い泥がどこまでも拡大すれば,森のキャンプどころか,南へ向かう道さえも封鎖されてしまう。そうなれば大穴の調査や紫針竜の対処どころではない。

アルジはところどころで会話に混ざろうとするたびに,ショムに目で制された。今はマッパとオヤブンの時間である。下っ端が口を出すタイミングではない。我慢の時間が続く。


「湿原を一番多く調査していたのはシッショくんだったかな」オヤブンがショムに尋ねる。「はい,仰るとおりです」「シッショくんならもっと知っていることがあるかもしれないな。今は寝ているだろうけれども。明日,話を聞くことにしよう」

「それで,どうするんだ」オヤブンはシッショの話を聞いてから決めるつもりだったが,マッパは逃がさない。湿原を浸食した速度を考えれば,一刻の猶予もないからだ。うーん,とオヤブンはショムに視線を送りながら考える。さすがのショムもこれほど情報不足では助言ができない。

「私とシッショさんでその泥を見に行ってもいいですか」

遠慮がちにアルジが発した。たしなめようとするオヤブンが口を開こうとするのをマッパがさえぎって言う。「何か考えがあるのか」

「以前の調査で,クビワのお兄さんのにおいがすると報告があったそうですが」その言葉にマッパがオヤブンを見ると,オヤブンも頷く。「そのにおいをどこで嗅いだのか,覚えていますか」

「今日の襲撃だ。地震が起きる前,クビワが」「今日もあったんですか」「今日も,ってどういうことだ」「いえ,以前クビワとシッショさんが調査をしたときにそのにおいがあったと,それでシッショさんが追加の調査をしたがったとうかがったんですが」

「どこだったかな」「湿地です」オヤブンの問いにショムが即座に答える。「けれども紫針竜を倒す手がかりのほうが重要ということで,マッパさんの調査を優先いたしました」

本来ならそのあと湿地の調査に向かえたはずだった。だが湿原の状況を鑑みるに,もはやその先を調査することはかなわない。

「それがどうした」「はい,ええと,」全員の注目を受け,アルジの頭が少し混乱する。「…。はい。整理しました。ええと,湿地に調査に赴くたびに生物の数が減っている,と前にシッショさんが報告しました。私はそれを狡舞鳥が食いつくしたものだとばかり思っていたんですが」「あの泥が原因だと?」「はい。たとえばあの泥と,クビワのお兄さんのにおいに似た成分があって,それを湿地で感じとっていたのかもしれません。つまり,あの泥は湿原から湧いたものでなく,西方から進出してきているものである可能性があります」

「それで,どうしてキミが泥を見に行く必要があるんだ?」オヤブンが背もたれに身体を預け直し,聞いてくる。「明日クビワに聞かなければならないことがあります。それはとても個人的なことなので,ここでは言えません。でも,私の考えが正しければ,その泥,土蜘蛛アクタニスに対処できるかもしれません」

「土蜘蛛?何だねそれは」

アルジは想像の世界から急に現実に引き戻され,赤面した。「…その泥のようなモンスターの名前です」「キミは見たこともないモノに名前をつけるのか?勝手に?」オヤブンが言うのももっともだ。まだそれがモンスターかどうかもわからない。アルジはうつむき,頭から湯気を出すほど自分の癖を恥じる。

「対処できるならなんでもいい。それで,どうするんだ。掃除でもする気か」マッパはあきれながらも話を進めさせる。地平線を飲み込むほどの量の土砂にどう立ち向かうのか。「…湿原を元通りにはできません。でも,それ以上広がるのは食いとどめられるかもしれない。まずクビワと話をさせてください。それで,もし皆さんが方法を思いつかないのであれば,私に任せてもらえませんか」

アルジは赤みの抜けない顔を上げ,オヤブンを見た。うーむ,という返事がかえってくる。これまでは失敗してもこいつ一人に責任を押しつければよかったが,今は違う。里の全員が危険に晒されている以上,率先して行動してくれる者が必要だった。迷ったすえ,オヤブンはショムの方を見た。ショムは無言で頷く。

「よし。その泥の対処はアルジくんに任せよう。シッショくんを連れて,明日見に行きたまえ。マッパくんは本部移転の手続きを進めるように。いいね」



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