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観測省の研究室。もはや当初の面影は残っておらず,空へぽっかりと大穴を開けている。壁もいたるところが崩れ,時折吹く風が,わずかに残った紙の破片を揺らしていた。
空は紫に染まり,冷ややかな流れが夜を告げている。その床に布をしき,シッショは膝で眠るクビワの髪をなでながら,焚き火をはさんで虚空をながめたままのマッパに目を向けていた。
「お前に自爆を教えたのは誰だ」ふいにマッパは口を開いた。その問いにシッショは記憶をたどる。「降伏した捕虜から」「北の大陸か」「わからない。そうかもしれない」
自分の持つ武器で敵を倒せないとき,それでも敵を倒さなくてはいけないとき,自分を最後の武器とするのだ。シッショは捕虜からそう聞いた。馬鹿げた考えだと思った。だがシッショはこの地に来て,裂掌獣と戦うなか,その戦術がよぎった。いずれ自分でもかなわない敵が現れるだろう。そんなときは,自分を犠牲にしてでもクビワを守るつもりだった。それがクビワを悲しませることになろうが,失うことだけは避けたかった。
「お前が自爆して,あいつを倒せたと思うか」「わからない」「どうして逃げなかった」「…クビワが逃げなかったから」「違うな。お前はあいつと戦って,自分の勇敢さを確かめたかったんだ」「違う。クビワを守ろうとした」
わからない。シッショはマッパの問いがわからない。何を知りたいのかも。
「マッパさんてそんなにネチネチした性格だったっけ」「そうだ。まともな性格ならこんな格好はしていない」「言えてる」ふっ,と二人は笑った。
「それ,賤民の証でしょ」「…知ってたのか」「オヤブンに偉そうにしてるから知らないフリしてたけどさ」「なんだ,互いに隠しごとだらけじゃないか」「里なんてワケアリな人たちしかいないよ」「それもそうだ」また二人は笑った。
南の世界では大罪を犯した者を賤民と呼ばれる身分に落とす。それは畜生にも劣る。賤民の証として衣服を身につけることを許さず,さらには時限式の毒を仕込んだピアスを装着させ,永久に辱めるのだ。この毒はピアスを外しても身体に留まり,定期的に解毒剤を受け取らなければ死ぬ。その投与は下層民に一任されることが多い。普段の生活で差別されることの多い下層民は,不満のはけ口として賤民を玩具にする。薬のためにはそれらの要求に従わざるを得ないのだが,ほとんどの賤民はその恥辱に耐えきれなくなり,自ら命を絶つ。
どうして賤民になったのか,シッショは知りたくなったが,それを聞くにはおそらくシッショだけが知ることをもっと話さなければならないだろう。シッショは焚き火をながめながら,「賤民になる前は何をしていたの」と聞いた。「さあな。無敵の将軍だったかもしれないし,腕利きの冒険家か,大泥棒だったかもしれない」
「それで捕まってそんな姿にされたんだね」シッショはからかう。「捕まったんじゃない。すぐに出頭したからな」出頭。誰かをかばったのか。「誰を助けようとしたの?」「…罪のない人たちだ。なあ,こんな尋問めいたことはやめにしないか。もう寝よう。お前も腹が減りすぎると寝れなくなるぞ」
マッパは火を消し,横になった。視界が狭まり,その奥へマッパが消えていくようだった。
燃え滓から白く昇る煙が,シッショの記憶をゆらゆらとたどる。賤民,財宝,戦士,助ける,素朴な人々。
「城蝸牛プテリオン」シッショはつぶやいた。それは一旦消された火を再び点けるように思えた。
「全てを飲み込み,這った跡が宝石になる巨大な怪物」なおもシッショはひとり言を続けた。
「ある日,城蝸牛が砂漠の街を襲った。一人の戦士が立ち上がり,それを討伐して多くの人の命を救った。けれども竜人の財産を奪ったという罪で,賤民に落とされた」
それはどこかで聞いた風の噂であり,おとぎ話であり,誰も聞くことも,信じることもなく,忘れ去られるものである。賤民に落ちた者がその腕を買われることはない。ゆえに,才覚を惜しんだ騎士に取り立てられることもなければ,血の嵐のさなか,北の大陸に向かうこともない。ましてや好奇心に燃える竜人にその身を託されるようなことなど考えられないし,毒の治療のために腕利きの医師が雇われるなんてことがあるはずがない。
賤民が成り上がることなどない。下郎は下郎。マッパの格好は趣味でしかないし,シッショはマッパの冗談を受けて,言葉遊びに興じただけである。
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