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その山が穴だらけに見えるのなら,それは自身の卑小さを忘れているからである。

どれほど下ろうと,いっこうに出口の光は大きくならず,腕はすりきれてきた。手の平と違って力が入りづらいのだ。肩ががくがくと震えてくる。わしゃわしゃと塔粟蟹の群れが迫る。音が大きくなる。ああ。まずい。心の制限時間が。針がゼロに近付いている。内側から狂気の衝動がむらむらとたちのぼる。狂え。はやく狂ってしまえ。お前はどうせ助からないのだ。狂ってしまえば痛くなくなるぞ。


いやだっ!


アルジは白い世界に飛び出した。だが地面は遠い。直後,再び熱気が噴出し,アルジを大きくはねとばした。くるくると回り,やがてその身体は大きな破裂音とともに,


水の中に沈んだ。すぐに全身を丸め,息を止める。肉の上下する感覚をへて,ふっと背中が水の膜を破く感触を得た。それを頼りに顔をそちらにむける。

ぶはっ。

顔を振り,陸地を探す。緑がある。流れがある。だが緩い。服と義肢の重み。節々の痛み。呼吸が途切れないようにしながら,岸を目指した。


足の抵抗が変わった。地面を捉えたのだ。荒い砂利を鳴らしながら,ようやく自身が死の淵から生還したのを実感する。

背後の川を隔て,落ちてきた山を見上げる。自分が飛び出した穴はさほど高くない。とはいえ水面でなければ確実に命は潰えている。あんなに下ってきたのか。アルジはさらにその上,黒鼈甲と別れた場所,らしき突き出た崖,を見ながら濡れた上着を脱いだ。

ストッ。

義足に何かが当たった。白く,太い針。あと少しで太腿に突き刺さっていたはずだ。

勘弁してくれ。

即座に背中の義手をはめなおし,その際に痛みがはしる。かまわず濡れたままの上着を頭までかぶり丸まってしゃがみこんだ。目だけで周囲の状況をさぐる。針は濡れていなかった。ゆえに川を背にし,じりじりと後退していく。

正面には森がある。その手前は河原。砂利。だが何の姿もない。

針を抜かなかったのは正解だ。向こうはこちらに手応えがあったと確信し,姿を隠して弱るのを待っている。毒が回るのを。アルジの足に血が通っていないことを絶対に知らない。

弱るふりで釣りだすか。そもそもそんなふりをしなくても自分は弱っている。体温を奪われ,体力を奪われ,頭は先の悪臭でやられている。

相手の数はわからない。わからないが,一匹でないことは確かだ。投擲物で相手が弱るまで隠れて待つなど,そんな狡猾な戦術をとる相手が一匹であるはずがない。ゆえに,この針も一本限りではない。連射をしてこないことから数は少ないのだろうが,何本かは隠し持っているはずだ。

アルジは息を殺して相手の出方を待った。すると,何かが揺らめいた。木の枝で何かモヤが動くような。透明なゼリーがするりと幹を滑る,ように見える。そしてそれはアルジが動かなくなったのがわかると,ガサガサと下草をかきわけ,河原にその姿を現した。


灰色がかった身体をもつタコだった。二本の腕が他よりも長く,それはイカのようでもある。だが胴体は長くない。

この世界には,空を覆うほどの浮遊するクラゲや,悪臭の山を根城とするカニや,群れで狩りをするタコがいる。そしてこのタコは,木の上で姿を隠し,持っている毒針で相手を仕留める。

『アルジ,そのバケモノは木の間を飛び移れるのか?』

シッショとともに裂掌獣に挑んだあの日,シッショが言った言葉が浮かんだ。



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