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ケライが取っ手を引き上げると,地下への階段につながっていた。板で作られた簡素なものだ。
「明かりを」アルジが言う。「ボッチさん達に知らせなくていいんですか」「何か潜んでいたら全滅するかもしれない。私がまず降りてみる」「わかりました」
明かりを受けとったアルジは持ち手を口でくわえ,熱に顎があぶられるのを嫌がりながらも階段を降りていった。やがて地面らしき場所に到達する。
「ケライ,来て。本がたくさんあるよ」歯を閉じたまま,舌だけ動かして話す。
言われるままにケライも降りた。最後に足を踏みはずし,アルジの背中に衝突する。
「すみません」ケライがそういってアルジの背中をさする。「いいよ。ケガはない?」「はい」
「ケライが謝るの,初めて聞いたかも」「そうですか。それでどんな本があるんですか」ケライはそれを無視して聞いた。アルジはため息をついて,照明を代わりに持ってもらうように言う。
地下室はさほど広くない。中央の机から照らせば,壁まで十分に届く。これまでの書庫とは趣が違う。本だけではない。何か工芸品のようなものも飾ってある。細かい模様の絨毯。木を削って作った人形。外に持ち出せばあざやかであろう色合いの衣装。何より,本を含め,すべての物は器具で固定され無傷だった。それが奇妙であると同時に,ここが書庫の本体なのだと感じられた。
だがアルジの様子がおかしい。部屋のなかに何があるのかを把握した途端,身体が硬直し,顔から生気がみるみる失われてゆく。その様子は背中越しのケライからは見えない。
思い出したくなかった,自分をばらばらに解体しようとする黒い網。それが幾重にも自分の身体に覆いかぶさってくる。これまで,始終,何かしようとするたびに,その足に,手に,胴にまとわりつき,その皮を,肉を,ひきちぎろうとしてきたもの。光を奪い,虚無へ引きずりこもうとしてきたもの。
それが渦の底に自身を引き込みはじめた。ものすごい力で。
どれほど心の肉が削ぎ落とされようと,痛みにのたうちまわろうと,その姿は外からは見えない。黒い網を振り払おうとするたび,それは肌に食い込み,肉を裂いて,なお,打ちよせる波のように暗闇から飛びかかってくる。それが止むことはない。心が砂粒の大きさまで粉々に砕かれ,吸い込まれ,そして消えるまで。それでも傍からすれば傷ひとつないきれいな身体のままだ。皮膚という薄い膜,その一枚裏側が,どれほどドロドロに溶けていようとも,頭を割って,腹を割って,頭の筋の一本一本,腹わたの襞の一つひとつ,すべてが原型を留めないほどに変わり果てているのを見せないかぎり,誰にも知られることはない。
そして人はそれを見て言うだろう。『ざんねんだ』『かわいそうに』そんな微塵も心に思っていないことを。
「やっぱりみんなを連れてくれば良かったかもしれない」
平坦な調子でアルジが言った。
「呼んできますね」そう言ってケライは踵を返し,階段に足をかけた。
「行かないで!」
アルジが叫んだ。その声にケライの身体が固まる。
「行かないで…私を一人にしないで…」アルジの声が震えだす。「すぐに戻ってきます」「駄目。行ったら…帰ってこれない」「帰ってこれます」「みんなそう言って帰ってこなかった!」
カチカチ鳴る音がする。アルジの歯だ。鼻をすする音も聞こえてくる。「みんなとは誰ですか。里の方ではないんですか」ケライが問うものの,アルジは荒く息をするだけで答えない。
と,ふいにアルジの動きがぴたりと止まった。
「私が代わりに死ぬべきだったんだ」そう言ってアルジは机に頭を叩きつけはじめた。何度も。
「何してるんですか。やめてください」ケライがアルジを机から引きはがそうとする。だがアルジは聞いたことのない何かを叫びながら自身を痛めつけるのをやめない。
なぜこれほど苦しいのか。それは身体の内と外が一致していないからだ。内がこれほどボロボロなら,外を内と同じようにボロボロにしてしまえばいいのだ。血がにじむ。外の苦痛から身体を守るため,鎮痛薬が勝手に頭から湧き出す。ほらね,自分の思ったとおりだ。腕がちぎれたときだって,全然痛くなかった。外が傷つかないかぎり,この身体というやつは自分を守ろうとしない。役立たずめ。見ろ,だんだんと内と外が一致してきた。このまま外もメチャメチャにしてしまえば,自分は楽になる。
地下にひびく叫び声。それは助けを求めるものではない。むしろ逆のものである。いずれにせよ,これだけの騒動,本来であれば他の者に伝わるほどのものだったが,残念だ,それは広場へ届かない。まるで自身の内を切り裂く刃,その苦痛が外からは見えないことを表しているかのようだ。
暴れるアルジにしがみつきながら,ケライは思った。こんなときに鎮静剤があれば。いや,医務室まで行っていたら,本当にアルジは死んでしまうかもしれない。
ケライはアルジの頬に手を当てると,渾身の力でムリヤリ顔を振り向かせた。
アルジの唇に柔らかいものが触れ,同時に歯に何かが当たった。
カツン,と音が響く。
重くなった心,その黒く粘つくものが足先からするすると抜けていき,代わりに虹のベールで包まれるように身体が軽くなっていくのを感じた。みるみるうちに,アルジの瞳に光が取り戻されてゆく。
ケライが顔を離し,目を開く。アルジは妙に穏やかな心地なのに,信じられないくらい鼓動が高鳴っている。そんな自分が不思議だった。
「口,切れちゃったよ」
自業自得です,とケライが言おうとしたところに,今度はアルジから唇を重ねた。
時間が止まったような,温かい気持ちに満たされていた。地面の上では,ボッチたちが互いに言葉をかわしながら,掃除を続けていた。
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