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アルジの重みか己自身の体温が低下したためか定かではないが,アルジを乗せた空飛ぶ亀,黒鼈甲 (くろべっこう) ルンマと名づけたもの,は高度を次第に落とし,やがて険しい山々に入りこむと,崖から突き出した平坦な地面に激突した。その表現は正しい。着地する寸前に手足を縮め,地面に叩きつけられたのだ。だが甲羅は弾力があるようで,少し跳ねたもののすぐに静止した。
かたや準備をしていなかったアルジはしこたま身体をぶつけ,冷えきった身体にこごえながらもあたりを見回した。
全身にへばりついた天巾の残骸をはがしながら,どこまで来たのか,里はどこか,情報をさぐる。すると背後から地鳴りとともに何かが近づく音がした。
アルジの後ろからすさまじい勢いで蒸気が噴き出した。穴が開いていたとは。直前にフックをのばし,下にぶらさがってやりすごす。こんなときに義手は便利だ。寒さで手がかじかんでいたらこんな芸当はできない。
一方,その熱風をまともにくらった黒鼈甲が上空に投げ出された。だがそんな事態になるのは予想済みだったようだ。素早く身体を広げ,新たな風を受けながら再びすいすいと上空へ昇っていった。
熱と風を急速に得るためわざわざここに降りたったのだろうか。計算された行動に驚くばかりだ。それにくらべ,とっさの判断でぶらさがったはいいが,腕の関節を持たないアルジは上に登るのも一苦労だった。
アルジの立つ場所は,あたかも高層建築のバルコニーのような構造になっていた。いくつもの尖った山がビルのように立ち並び,山々の中腹には,まるで窓のように点々と穴が開いている。長い時間をかけて浸食されにくい物質だけが残り,このような奇妙な山々を作っているのかもしれない。ただこの穴はいったい何だろう。中からは何かが腐ったような強烈な悪臭がただよってくる。
内部をのぞきこむと,わずかに光がさしこんでいる。煙突のようなどこまでも深い空洞に,のっぺりした内壁。湯気が立ち上り,白い蔓が何本も垂れ下がっている。ところどころ,開いた穴が明かりを取り込んでいるものの,底に何があるのか暗くてわからない。アルジには近代建築といった概念はないが,これが自然由来とは思えないほど場違いな雰囲気を持つものであることが伝わった。上を見ると,真っ白なチューリップを逆さにしたような,細長いお碗状の花がいくつも咲いており,その並ぶさまは胡蝶蘭のような美しさである。おそらくこの白い蔓の主だろう。
ここから地上に降りるにはこの蔓をたどるのが最善のように思える。アルジは両腕の義手を背中の固定用フックにひっかけて外し,肘から先のない丸まった腕と義足でするすると下りはじめた。
すぐに後悔した。花があるから勘違いしてしまった。酸素が異様に薄い。そして臭い。硫黄か何かだろうか。頭がくらくらする。長居すれば危険だ。急いで地上付近に開く穴を探さなければ。
ぽとっ。
アルジの肩に何かが落ちる。もう生物が落ちてくるのはこりごりだ。そう思いながら上を見ると,花の中から黒い何かがわらわらと現れ,次々に蔓をつたってきた。
ああ気持ち悪い。アルジはこういうわらわらしたものが大嫌いなのだ。思わず身体が強張ろうとするのをなんとかこらえ,必死に手足を動かす。
カニだ。なぜ山の中にカニが。いや,そんなことはどうでもいい。それはアルジを認めたかのように,不規則に落下してくる。掴まりそこねただけかもしれないが,ねらいは自明だ。アルジはまんまと自分たちの巣に入り込んだエサなのだ。塔粟蟹スサルバ。塔蟹とすると巨大生物のようだから間に一字入れた。そんなことを考えている場合か。
細い蔓にしがみつき,下りながら出口を目指すアルジと,それを追いかける黒いカニの群れ。地獄で苦しむ罪人が天から落ちてきた蜘蛛の糸につかまって出口を目指す,そんな話もあるが,まるでその天地を逆さまにしたような状態であった。アルジが必死に目指すのは地獄の底である。だが地獄行きなら負けない。何のプライドか全くわからないが,アルジは落下するかのような速度でひたすら下った。
だが家主だけあって,カニの方が速い。追いつかれればあっという間に全身を包み,粉微塵に引き裂くだろう。かといって焦って手が滑れば奈落の底に叩きつけられ,調理する手間もなくミンチとなる。身体にへばりつく個体を振り払うように左右の蔓を飛び移りながら,アルジは無心で地上を目指した。
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