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朝,クビワが目覚めるのを待って,マッパ達は里を目指した。真っ暗な通路を抜け,ガスに満ちた谷をわたる。幸い湖は張っておらず,容易に針山へとたどりつくことができた。だが奇妙なことに,針山に獣の姿が見えない。ふだんは頭上をあのイガ栗のような獣が飛びかっているはずなのだが。

その原因は山の頂上に達したことでわかった。そこから見通せる湿原にはかつての面影など微塵もなく,茶色い土があちこちから盛り上がり,平坦な大地をデコボコに変えてしまっている。何が起きたのか。マッパたちは知らない。白きザエルとの死闘に集中するあまり,この地を襲った地震を。

「!」

マッパは視界に何かを捉えた。荒れた大地,その隙間に,コールタールのような黒く粘ついた物が漂う。まさか地面が液体のようになってしまったのか。獣車が心配だ。二人を急かし,山を下る。麓のキャンプに着いた。よかった。ダモスは怯えながらも無事のようだ。とはいえ,たった一人,いや一頭で恐怖の夜を過ごしたダモスは神経が高ぶり,今にも暴れ出しそうだった。シッショはキセイほど動物の扱いは上手くない。それでもこれまでたやすく操れたのは,ダモスが温厚な生き物だからだ。それがどうしてこんなに取り乱しているのか。一体どうしてしまったのか。

「シッショ」クビワが呼んだ。「なに?」必死にダモスをなだめながら,シッショは答える。


「兄チャのニオイがする」「なんだって?」

うまく聞きとれず,詳しく聞こうとしたときだった。


「伏せろ!」

マッパの叫び声とともに,地面が大きく揺れた。あわててシッショは身をかがめる。「クビワ!しゃがんで!」だがクビワは言うことをきかない。足元もおぼつかないのに,視線は湿原をとらえつづける。やがて揺れはおさまったが,もはやダモスは完全にパニックになっている。獣車に乗って,いちはやくこの危険な場所から逃れなければならないのだが。いや,乗れなくてもいい。無事な場所に避難させなくては。

このままではキャンプも湿原のように崩れてしまう。かといってダモスは言うことを聞かない。置いていく?冗談じゃない。里の運搬の要なのだ。そのうち一台をみすみす失ってなるものか。マッパはやや熱を帯びた頭で考えた。

「クビワ。頼みがある」「なんだ」マッパの言葉に,クビワはすんすんと鼻を鳴らしながら言った。「ここから湿原のキャンプまで先に行け。そこに着いたらこの信号弾を放つんだ。それでキセイを呼ぶ」

クビワはあからさまに嫌そうな顔をし,「いやだ。おまえがいけ」と挑発した。だが今のマッパは乗らない。「お前は誰よりも足が速い。シッショたちを早く助けるために,頼む」

シッショ,という言葉にクビワはコロッと態度を変える。「シッショを?わかった。かせ」

たやすいものだ。

「ちょっと待って」あわててシッショが口をはさんだ。話がめちゃくちゃだ。クビワを湿原のキャンプにやるのは許すとしよう。だが。「こんなところにキセイを?」

「そうだ。今のこいつを落ち着かせられるのはあいつだけだ」「無茶だ」「ならここに獣車を置いていくしかないな」「脅すのはやめてよ。僕がダモスの扱いがヘタなのは認める。でもだからってキセイをこんな危険なところに呼ぶなんてどうかしてる」「キセイがここに来なきゃいけなくなったのはお前に獣使いの能力が足りないからだ。恨むなら自分を恨むんだな」

そう言い切ってマッパはクビワに信号弾を突き出した。「クビワ。頼む。俺だけじゃない。ここにいるシッショの命もかかっている」

シッショを持ち出すなんて卑怯者。だが議論をしている時間も惜しい。クビワは「わかった」とすぐにうなずき,シッショが止める間もなく信号弾を受けとってキャンプを飛び出してしまった。そのまま荒れた地面をものともせず風のように駆けぬけてゆく。その背中に向けて伸ばした手を,もはややりようもなく振り回してシッショは引っ込めた。


嵐のような時間が過ぎ,シッショはため息をついた。獣使いの能力が足りないだって?足りないどころか能力のかけらもないやつに言われたくはない。不満がつのる。ただ表情には見せないようつとめる。ダモスが怯えるからだ。二度の地震で憔悴したダモスを撫でつづけてはいるが,この調子ではまだまだ時間はかかるだろう。そんな焦る気持ちのシッショをよそに,マッパは時間ができたとばかりに研究所から持ち出した資料を広げる。

「マッパさん,それ」研究所の資料はザエルとの戦いで失われたと思っていたが,マッパはしたたかである。「倉庫にあったものを持ってきた」「倉庫?」「お前らがあの白いのと会ったところだ」

マッパはザエルが飛び出してきたところで相手の思惑を読んだ。そしてザエルの背後に自分の求めるものがあると確信した。たいてい重要な情報ほど大事に隠しておくものだ。適当な本棚につっこんでおくことなど,小心者にはできない。そしてつっこめるほど胆力のあるような相手なら,そもそもこんな隠れ家のような場所でコソコソ仕事をすることもない。何より小心者であろうが胆力のある者であろうが,白いザエルがいれば全て解決できる。こいつに任せていれば,全ての侵入者を葬ってくれるはずだったのだ。事実,それまでの戦いで武器が消耗していたとはいえ,クビワとシッショを追いつめたのだ。マッパが加勢しなければどうなっていたかわからない。

最後まで自分の力は隠しておくつもりだった。大口を叩くわりに,実力が把握できない謎の人物。なんとも魅力的ではないか。だから戦闘をなるべく避けてここまで来たのだ。だが北の大陸はクビワほどの実力者をもってしても手に余る世界だった。頭の片隅にチリチリするような不快感をおぼえながら,資料を眺めた。

それは観測省の拠点を示した地図だった。雪山にひとつ。火山の麓にひとつ。そして,まだたどり着いていない,東の大穴にもうひとつある。これをザエルが守っていたのなら,そこに手がかりがあるに違いない。

次の目的地が決まった。



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