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ボッチはマッパとともに川を渡り,設営予定の場所を目指していた。マッパは先ほど通りすぎた穏やかな川が夜には黒く染まるとは俄には信じられなかった。それに土蜘蛛がここまでたどりつけば,勝手に霧が倒してくれるのではないか,と疑問を述べた。
「蝕霧が活動を始めるのは夜だから,それまでに土蜘蛛に飲まれたら何の意味もない」
マッパの問いにボッチが答えた。この地には真夜がないこともあり,蝕霧が正体を現す時間はそれほど長くない。ゆえに,川の蝕霧に土蜘蛛の討伐を任せる,という賭けは分が悪い。もし一日中霧が立ちこめていたのであれば,アルジも自分も土蜘蛛を放っておいただろう。
マッパは不要な戦いを避けるため,森に入ったことはほとんどない。珍しく,ボッチのほうが滞りなく進んでいくのを,マッパがところどころでひっかかりながら追いかけるような状態になった。手間取るマッパを見たことのないボッチはやや得意気であった。
とはいえ,そんな余裕でいられる時間はそう長く続かない。ボッチが急に立ち止まる。
「何だ」マッパが隣に立って問う。「迷ったのか?」
「おかしい」「おかしいのはお前の記憶だろう」「道が消えている」「なに?」
無言でボッチが武器を構える。柄の長いピッケル状の道具,戈 (か) だ。これまでは邪魔な下草を刈り取ったり,キセイらがひっかかりそうな枝を切るために使ってきたが,今回はマッパばかりに頼っていられない。マッパもそれに合わせ,しぶしぶと大槌を手に持つと,全身の感覚を研ぎ澄ませ,別人のような殺気を放つ。
地面には見覚えがある。ボッチはさほど森を歩くのに慣れていないとはいえ,一度歩いた場所を忘れるほどではない。それにも関わらず,ひらけていたはずの獣道が,まるで以前から無かったように塞がれている。何者かが手を入れたのだ。ボッチは下ろしていたフードを頭まで被り,聴覚が鈍くなるのを犠牲にしてでも頭部を守った。後退するよう,手でマッパに合図を送る。何に狙われているのかは予想がついた。
楠蜘蛛,アルジが虚凧と呼んでいたものである。以前,仲間がやられたことを忘れていないのだ。いずれやってきたときのため,バリケードを張って対抗するつもりだったのだろう。そしてまんまとマッパとボッチの二人がやってきたわけだ。復讐を果たすいい機会だった。残念なのは仇である耳の長いやつと,鈍く光る手足を持つやつがここにはいないことだ。
じりじり下がりながら,マッパは泰然と,かたやボッチは亀のように身を固め攻撃に備える。マッパは楠蜘蛛の毒矢に対し無防備だ。だがヘタに声をかけ,気を散らしては逆効果になるおそれもある。案内をしろと急かすマッパに従ってここまで来てしまったが,事前にもっと打ち合わせをしておくべきだった,とボッチは後悔していた。
いや,マッパなら大丈夫だ。ケライと喧嘩をしたときだって壁に叩きつけられながら無傷だったではないか。今は自分の身の安全だけを考えよう。
「このまま大穴まで行くつもりだったんだがな」
ふいにマッパが口を開き,背後を指差した。それを合図にボッチが駆け出す。蜂の羽音のような鈍いうなり声を上げ,何かが身体をかすめていく。その正体は見なくてもわかる。毒矢だ。ただそれが命中することはない。相手と同じよう,ボッチも草のなかに隠れ,這いつくばるようにして進んでいる。樹上から狙いを定めないかぎりそうそう当たることはないし,発見されるような危険を冒してまで姿を見せることはしないだろう。楠蜘蛛の慎重深さは長所であると同時に短所でもある。それはアルジが命がけで明らかにした,楠蜘蛛の最大の特徴なのだ。
アルジの分析力は高い。それは認めよう。けれども楠蜘蛛は楠蜘蛛だ。断じて虚凧などではない。
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