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マッパが大樹に向かってキャンプを出てから,アルジは手持ち無沙汰になった。そこで獣車の隣につなげたダモスに干し草を与えながら,その足元の大きく抉れた土をならしていると,
視界の隅で信号弾が上がるのが見えた。緊急の移動手段を求める合図だ。シッショ達に何かあったのか。アルジは里に向かってジブーを呼ぶ信号弾を放ち,最小限の道具を持って駆け出した。ジブーは鼻がいい。マーキングされた布を首に巻いていれば,キャンプから離れていても追いついてくれるはずだ。
胸騒ぎがした。信号弾が放たれた場所はかなりの距離がある。もし重傷だったら。もしマッパを大樹に送らず,信号弾に気付いていたら。しかも自身の足に負った傷は浅くない。まともに戦うことは不可能だ。いわば,ジブーがどれだけ速くアルジの元へ来て,自分が時間稼ぎをできるかにかかっている。
シッショ達が向かったのは湿原から分かれた先の湿地だった。そこは日照量はさほどでもないものの,肥沃な泥土のおかげで丈の長い水草が繁茂している。もし設備が整えば,作物を育てることも可能だろう。実際,その下見も兼ねてシッショ達はここを調査しに来たはずだ。だがその可能性は先に放たれた一発の信号弾にかき消されたのだ。
バシャバシャと水がはね返るのも構わず,草をかきわけて進むと,新たな信号弾が上がった。先の場所とは違う。移動している。いや,こちらが救出に来るのを確信して放ったのだ。自身の後退した場所を知らせるために。危機にあってもこれほど冷静な行動をとれるのは,
「シッショさん」 草むらから伸びる槍。それが立つ場所にシッショはいた。布が敷かれた上にクビワが横たわっている。クビワに目立った外傷はないが,血の気が引いている。
「二人とも大丈夫ですか」「僕は平気だ。けど,クビワの意識がない」「何にやられたんですか,モンスターですか」
「ザエルだ」
!!
ありえない,と思わず答えそうになった。それは二人に失礼すぎる言葉だ。二人とともにザエルを森で葬った。そしてその立役者の一人であるシッショが言ったのだ。見間違えようはずもない。だが,ありえない。やつの能力は森の賜物だからだ。森の資源なしには,あの必殺の拳を生み出せないはずだ。そしてそれすらクビワには通用しない。この湿地で,爆炎を生み出せないザエルが,クビワに勝てるものか。
だが,こうして現にクビワは敗れた。傷つけられることもなく。
何が起きた?アルジはそう聞きたくて仕方がなかった。人の生死がかかったこの状況でだ。
ザエルは里の人々を傷つけてゆく。だが自分だって変わらない。気を抜けば,平気で人を傷つけようとする。そんな言葉を投げつけようとする。
そうだ。自分は何も変わらない。ようやく自分が里に受けいれられるように感じ,自分の居場所,そうしたものが,ミミや,シンキらの親切によって得られているのに,それを恩に思うこともなく,自分の思うまま,欲望を満たそうとする。
「ジブーを呼びました。ザエルは追ってきていますか」好奇心とそれへの嫌悪に苛まれ,アルジは事務手続きをするかのように,調子の変わらない声で問う。「大丈夫だ。たぶん,あいつの縄張りからは外れた。この付近に僕達を襲う敵もいないだろう,おそらく」
シッショは目をクビワに落としたまま,クビワの額を優しく撫でる。
やがて草むらを分けるようにジブーが現れた。アルジとシッショはクビワを背中に巻きつけ,いちはやく里に向かって走らせた。
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