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シッショの覚悟はすぐに試されることとなった。甲高い金属音とともに,クビワの籠手が折れた。そのわずかな隙をザエルが逃すはずもない。振り上げるその腕は,最短距離でクビワの身体に迫る。と,ザエルがバランスを崩した。ザエルの唯一の弱点,その後ろ足に槍が突き立てられたのだ。シッショが噴射機構を起動する。

だがその場所を選んだのは誤りだ。いや,正解などなかった。足先まで覆う分厚い毛が,刃が閉じるのを拒む。先端が岩盤獣との戦いで歪み,不完全な噴射ではその力を十分に発揮できなかったのだ。これではどこを攻撃しようが意味がなかった。

ザエルは戦いに水を差したシッショを次の標的に選んだ。部屋全体が揺れるほどの雄叫びをあげる。それでもシッショは怯まない。

「自分を信じろ!」

そう叫び返し,シッショは己を鼓舞させた。

咆哮で怯えさせられると思ったら大間違いだ!

これまで戦ってきた全ての経験を全身に張りめぐらせながら,勘を研ぎ澄ませる。

「シッショ!」クビワが叫ぶ。

ズン!

ザエルの拳が空を捉える。シッショは丸腰で攻撃をかわしたのだ。その爪は硬い床をバターのように削りとる。だがシッショは冷静だった。ザエルの骨格なら次はこっちだ。二撃目もかわす。

なるほど。シッショはクビワが楽しんでいるように見えた理由がわかった。

森での戦い,そしてその落とし子であるキバとツメと暮らすなかで,シッショはその動きの記憶が細胞の一つひとつにまでしみついていた。このザエルの爪が大きすぎるのもシッショに味方した。動きは速いが融通は利かない。初動を見切れば軌道は読める。これだけ速く,強力な攻撃でも,かわすことができるのだ。自身の限界が,その高みが引き上げられていくような快感があった。シッショはアルジを思い出した。なぜアルジは戦いのなかで喜んでいるように見えたのか。感じていたのはこれだったのだ。日々のいさかいで悩み,些細なことで己の卑小さを嘲り,誰かをそしり,後悔し,それでもクビワさえいれば,そんな虚偽でごまかしつづけてきただけのちっぽけな自分が,全てのしがらみや過去,ついには自分自身さえも忘れ,目の前のことに没頭する,その官能的な贅沢に酔いしれた。

だがそれでも足りない。圧倒的に。シッショの肉体が,思考に追いつかない。爪がシッショの身体をかすめ,血が流れる。

クビワも気をひこうとザエルに攻撃をする。だが利き手の籠手が砕けていては,ザエルの毛を貫くほどの力が生まれない。いや,もともとクビワの攻撃はあまり通っていない。ザエルの攻撃を誘導し,自滅を促していたようなものだったのだから。

「ここであきらめてどうするんだ!」

なおも吠えながらシッショは避けた。避けつづけた。来い。

メリッ,という感触とともに,クビワの腕に手応えがあった。執拗な攻撃がようやく実ったのだ。ザエルの身体が揺らぐ。だがそれは仇となった。爪の軌道がわずかにずれ,シッショの片目が切り裂かれる。赤い血が線を引いた。

シッショの負傷にクビワの顔が歪む。クビワのせいじゃない!シッショは無言で訴えた。だが距離感を失ったシッショに,もはやザエルの攻撃を避ける力はない。クビワほどの直感がなければ,勘で避けることは不可能だ。


シッショは一つの決意を固め,胸のダイヤルに手をかけた。自爆。この距離なら,クビワは少しの火傷で済むだろう。

クビワ。元気でね。



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