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山を下り,泥の沸き立つような大地に接近しながらも,なおアルジは針山の先でシッショたちが見たもの,その話を反芻していた。
湖に偽装し,粘液で獲物を捉える水葡萄ピアトーン,火山という不毛の土地に適応し,全ての攻撃をはね返す鋼の鎧を手にした岩盤獣タルポラ・アプ,そして調査隊最強の戦力とわたりあった白き獣,暴掌獣ブランザエル。想像するだけで胸がおどった。この忌々しい土蜘蛛がなければ,いずれは水葡萄と岩盤獣をこの目で見られたかもしれないのに。
アルジは獣車でここまで来る間に,シッショが以前,湿地の先で何を見たのかを聞いた。湿地を抜け,荒地を避けて北上しようというところで,クビワは何らかのニオイを感じた。シッショはそう話したが,アルジの知識とは食い違う点があった。アルジの知るかぎり,そこは荒地などではない。かつて雪灯籠を探すため,山の頂上まで達し,そこから見下ろした圧倒的な風景。湿地の先には,もっとも穏やかで,過ごしやすく,それゆえもっとも競争の激しい,草原が広がっていたはずだった。そしてその先にあるのが,海。
けれども土蜘蛛は草原を荒地に変え,湿地の生物を食らいつくし,湿原をも飲み込んだ。どこまでも貪欲に,全てを虚無に帰そうとしている。北の大陸を知ろうとする者すべてを拒絶し,まるで血の嵐の記憶も何もかも忘却の彼方へ送ろうとしているかに思えた。
ただアルジは,それで済むのか気になっていた。たとえば自分たちが土蜘蛛を止めることができず敗れたとしよう。北の大陸が全て土蜘蛛に飲み込まれたとしよう。それで済むのだろうか。この土蜘蛛という現象は満たされるということを知らない。北の大陸をたいらげた後,地続きである南へもその手を伸ばしていくのではないか。
そのとき,果たして南の人々は対抗できるのだろうか。アルジは心のどこかでそれを望んでいる醜い自分を呪った。自分はどこまでも血の嵐の亡霊なのだ。そんな自分をずっとつき動かしてきたのは,仲間への思いとかそういった清らかなものではない。ただ知りたい,という,どこまでも独り善がりで,それが満たされたところでどうとなるわけでもない,にも関わらず,ひたすら自分を前へ押し出し続ける不思議な力だった。
土蜘蛛からはまだかなり距離がある。そこは風に吹かれ,巻き込まれた土や草の破片が,弾力をもった表面をゆっくりとたゆたっている。ゼリーにのせられた粉末のようだ。
アルジはフックを射出して土蜘蛛を採取しようと,足を一歩踏み出した。その瞬間。
ゆるい。
背筋が引き伸ばされるような緊張をおぼえた。地面が緩い。何の変哲もない地面,アルジがまだ安全だと思っていた場所,そこさえも,わずかな土の下まで食い荒らされていたのだ。土蜘蛛の侵食は,目に見えないところで想像以上に進んでいる。
ここでシッショに救助を依頼することになるとは,全く想定していなかった。先にアルジが言ったもしものときというのは,マッパが見た何かが伸びてアルジに襲いかかるといった,シッショでもわかるような状況だった。大きなミスだ。遠く離れたシッショに伝える手段がない。振り向いても,声を出しても,地面が抜ける。そんな危うい直感があった。いや,このままじっとしていてもいずれは飲み込まれてしまう。
アルジは顔に火傷を負うのも覚悟のうえで,袖にしまっていた信号弾を射出した。火花が顔をすり抜け,光を放ちながら上空へ向かう,と,両足がドブにはまるように抜け,粘る液体が噴き出した。
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