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水がぶちまけられる。賢い。相手はこちらが何らかの対策をとっていることを見抜いている。それはそうだろう。アルジの異形の足はもはや生物に由来していないのだから。だがアルジの義足が水にまみれてしまえば,その効力も失われる。アルジを追い詰めるための水ならたくさんある。ここはそのために選ばれた場所なのだ。
雷掌獣はその体格を活かし,水しぶきで自分よりも小さいアルジの目をくらます。濁ったカーテンの後ろから爪を伸ばし,必殺に依らずとも相手の命を奪えることを示す。だがアルジはこれまでその動きを嫌というほど見てきた。幾度も夢に見た。起きていても視界から離れない日さえあった。今自分が相対しているのはそれよりも小さい。その腕は,夢に見た拳よりも伸びることはない。シッショの言うとおりだ。クビワならば容易に避けられるだろう。
ゆえに,アルジが待つのは必殺の放たれるその瞬間だった。何らかの予備動作がある。必ず。シッショが見逃したものが。
危機に陥るたびにシッショが呼ぶ声がする。だがそれは水のはねる音にかき消され,伝わらない。悪臭玉の補助はもはや利かない。すでに相手はそのニオイを知り,無害なものであることを知っているからだ。仮にニオイの中身を変えたとしても,すぐにわかるだろう。ゆえに通じない。
ふいにアルジの足が小石を踏み,体勢が揺らいだ。足がもつれ,尻餅をつきそうになる。まずい。身体が水面に接したらおしまいだ。
なんとか踏みとどまり,こらえるその身体に,容赦なく雷掌獣の腕が襲いかかった。爪が身体をかすめる。まさに間一髪のところで避けたその腕が,激しく水面に叩きつけられた。勢いの反動か,その動きが一瞬止まる。違う。それは反動じゃない。これは。
何かの弾けるような音。
飛び散るしぶきにシッショたちの視界がふさがれた。
「アルジっ」
白い霧があたりを支配する。あまりの静けさに,時間が止まったように感じられた。
シッショとクビワだけでなく,周囲に生える草の一本一本までが事のなりゆきを見守っているようだった。
やがて視界が晴れてゆく。その中にアルジはいた。だが立ったまま身動きひとつしない。顔に貼りついた髪から雫が流れ,顎から滴り落ちるだけだ。
雷掌獣は。雷掌獣はどこだ。シッショが視線を向ける。
その身体は腕は振り下ろしたときのまま,その影を水面に落としている。だが頭部は大きく抉れ,鈍く光る鉄球がめりこんでいた。
勝った。アルジが勝ったのだ。いや,アルジが無事かどうかはわからないが,ただ少なくとも雷掌獣を仕留めたのは確かだ。鉄球から垂れ下がる鎖は,アルジの肩へとつながっている。それこそ,手足がなくとも相手を沈めるため,倉庫から見つけ出した武器を加工したものだった。
攻撃をよけられるとはいえ,雷撃が放たれるまでかわし続けるのは不可能だった。ゆえにアルジはあえて転ぶような隙を見せ,相手を油断させる賭けに出たのだ。
アルジのもつれる足を見逃さず,雷掌獣はこの時を待っていたかのように雷撃の拳を繰り出した。だが,それこそがアルジの意図したものだった。かつて森で見た裂掌獣とクビワとの戦いから,大技が隙になるとアルジは読んでいた。予想通りだった。雷撃を放った雷掌獣の身体が一瞬止まった。
拳から雷撃が水を這った瞬間,雷掌獣は勝利を確信したに違いない。どんな敵であれ,この雷撃から逃れらるものなどない。ゆえに,水しぶきとともに自分の頭が無くなったことにも気付かなかっただろう。
アルジに必殺の雷撃は通らなかった。わずか一瞬,その無防備な頭部に合わせるように,全身をひねり,素早く渦をえがいた。肩から伸びた鉄球は加速し,そして強い遠心力を得て相手の頭部をふきとばしたのだ。アルジが一対一で雷掌獣を倒すと言ったのは自身の実力を示すためではない。軌道の不規則なこの武器は混戦では使えないからだ。
クビワを一撃で沈めた雷掌獣。その命もまた,一撃で絶たれた。ただし,優れた足がなければアルジの命が絶たれていたはずだ。ミミがアルジを守り,勝利に導いたといえる。
シッショが何かを叫び,走ってくる。倒れた雷掌獣のそばにアルジはしゃがみこみ,その巨躯をながめながら,どう素材を持ち帰ろうか考えていた。
大技は隙を生む。
「アルジっ!!」
その声にふとアルジは,大きな歯が身体にめりこんでいるのを知った。
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