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空気の分子そのものが浮き足立つ。そんな異様な雰囲気にマッパが気づいた瞬間。

轟音とともに壁が粉々に消し飛び,無数の破片が土煙とともに襲いかかってきた。そのエネルギーの根源を瞬時に見抜き,身体を逃がす。紙一重の距離。いくつもの高速の断片が糸を引くように通過し,背後の本棚,壁の設計図,それらを無慈悲に抉ってゆく。

いくつかの赤い光が,土色の世界に模様を描いた。

煙が切り裂かれ,そのあまりの速さに空気が悲鳴をあげる。二つの影が飛び出した。小さな黒い影が壁を蹴るやいなや,大きな白い影が全てを貫く弾丸のように突っ込む。巨大な穴が開き,ちぎれた紙が花吹雪のように舞い散った。

小さな赤い光がゆらめき,それを大きな赤い線が尾を引きながら追う。かたや圧倒的な勘で攻撃をさばき,かたやそれを剛腕でねじふせようと,残酷なまでに研ぎ澄まされた爪を伸ばす。

クビワとザエルだ。

ザエル。これまで調査隊の前に幾度も立ちはだかった,全てを切り裂く破壊の化身。あるときは森,またあるときは湿地,そして今は観測省の根城。白い毛に覆われたその身体は自らの血で染まり,なおも他のどの種よりも大きな爪を振るう。それが誇示するのは,爆発や,雷撃とは違う,純粋な力だ。その爪と,クビワの籠手が交差し,宝石のようにきらめく。互いに命をかけた駆け引きでありながら,まるで優雅に舞っているかのような美しさであった。

こんな果たし合いを見られて俺は幸せものだ。マッパはわきあがる笑みを抑えきれなかった。だからこそクビワをここで死なせるわけにはいかない。マッパにはわかっていた。ザエルのほうがわずかに速い。今は奇跡的に回避できていようが,やがてはその命が刈り取られる。マッパはその戦いに後ろ髪をひかれつつも,その場を離れた。


シッショは己の無力さを嘆いていた。崩れる研究室のなか,自分がここでは足手まといにしかならない現実に。何のためにこんなところにザエルがいたのかはわからない。だがそれはこれまで戦ったものよりも数段速く,そして自分の命を顧みていなかった。ケライがかわすたびに壁に激突し,その身体を血で染める。つがいの相手も,子供もいないこの場所で,自身を傷つけ,何を守ろうとしているのか。それでもなお攻撃の手を緩めない。クビワを仕留めようという渇望が,肉体の限界を超えさせている。もはやシッショが介入できる速度をはるかに超えている。見守るしかないのが歯がゆく,刃の欠けた槍をにぎりしめた。

そんな悔しさを抱えているのに,シッショは嬉しくて仕方がなかった。クビワの動き,身のこなしに,自分の教えが生きていた。思い描いた理想が目の前にあった。どうかわせば次の攻撃にうつれるか,どうすれば急所を捉えられるか,さらにそこから回避にうつるには。流れるような無駄のない動き,その全ては,シッショの教えが基となっている。

シッショは果たして自分の指導が正しいのか,その才能を押し潰してしまうのではないかと恐れる日もあった。けれどもクビワはいつも澄みきった目でシッショを見ていた。その瞳が,シッショの迷いを捨てさせた。クビワはシッショを信じ,何年も訓練してきた。その蓄積が血肉となり,今やシッショが全く追いつけない敵とも互角に戦えているのだ。クビワの才能が圧倒的とはいえ,それを開花させた,その一助を自分が担っていたこと,自分の指導が間違っていなかったことに,シッショは感動で震えた。

それと同時に,この戦いでクビワの命が奪われないよう祈った。クビワは全力で戦える敵に満足しているかもしれない。でもそれで深く傷ついたり,それ以上の…いや,考えたくない。少しでも助けられれば。だが自分が加わることはクビワを邪魔することにしかならない。つらかった。自分ができるのは,万が一のため,槍の刃を戻し,いつでも使えるようにすることだけだ。次に使えば刃は折れるだろう。そうなったら自分は丸腰だ。いや,今だってこんなもの,ザエルからすれば爪楊枝のようなものなのだ。守りに使えないなら,攻めに使うまで。



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